愛知用水運動 |
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知多半島は、年間を通して降雨量が少ないうえに大きな河川もなく、毎年のように干ばつに見舞われていました。農業用水はほとんど天水に依存し、雨水をため池にため、また、つるべ井戸で水を汲んで耕作をするという状態でした。このような厳しい環境の中、「木曽川の水を知多半島へ」が、知多農民の永年の悲願でした。
戦後間もない昭和23年、知多町(現知多市)の篤農家久野庄太郎は、知多農村同志会のメンバーとともに「愛知用水」の実現に向けて運動を起こしました。そしてこれに共鳴し、協力を申し出たのが、当時安城農林学校で教員をしていた濱島辰雄でした。彼らは、精力的に県や国に働きかけ、昭和36年ついにこの「夢の用水」愛知用水が完成したのです。
下の「愛知用水概要図」は、昭和23年7月、濱島辰雄が久野庄太郎の自宅を訪ね、意気投合し、その翌日から現地踏査を開始し、3ケ月で完成されたものです。
昭和23年12月24日、当時の吉田首相への陳情はこの図面を広げて行われました。
また、ここに描かれた愛知用水幹線水路の位置は、現在の愛知用水の位置とほとんど違いません。
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